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長谷寺には、初代徳川家康から十三代家定まで十三幅の肖像画が伝えられています。
いずれも衣冠束帯姿で神殿風の室内に坐し、像主を神格化して描いています。
それぞれ単独の将軍像については他所にも幾つか伝えられていますが、このように十三代まとまった礼拝像は他に知られず、極めて貴重な遺例と言えます。
中でも家康像は、江戸時代初期頃に描かれたもので重要です。やや丸顔で口髭をはやし、衣服に牡丹唐草葵紋を入れ、繧繝縁の上畳に打敷を敷いて坐した姿です。感情を押えた物静かな姿には東照大権現としての品格が感ぜられます。
また、表具には長谷寺第十四世英岳(就退1695〜1703)・第十五世亮貞(同1703〜07)が幕府より拝領した葵紋金襴の裂地が用いられていて豪華です。
次に、五代綱吉像・六代家宣像には、第十七世隆慶(同1701〜15)の墨書銘があります。
七代家継像には享保二十年(1735)の年号、そして十代家治像には第三十一世懐玄(同1785〜90)が尊影と位牌を寄附したと記していることから、少なくとも五代綱吉像以降は将軍没後まもなく制作されていったようで、二代秀忠像・三代家光像・四代家綱像も相前後して描かれたもの思われます。
残念ながら絵師は明らかではありませんが、三代家光像に「栄賢筆」、十二代家慶像に「森田易信拝写」とあり、後者は豊山御絵所/京都新町通松原上の画工として十一代家斉像・十三代家定像も描いています。
さて、その由緒ですが、長谷寺は代々徳川幕府の庇護を受けてきました。家康は寺僧を招いたり、長谷寺参詣も計画されました。また家光は黄金二万両を寄進して観音堂を再建し、綱吉・桂昌院の帰依もあって本堂に徳川歴代将軍のご位牌を祀ってきました。
そして大檀主聖武天皇、大光院殿(豊臣秀長の法名)東照大権現(徳川家康)から十三代温恭院殿像を掛け、香花を供えて追善供養を営み、特に家康に関しては方丈講堂で東照大権現法楽「十七日論議」を厳修してきました。
十三代将軍の尊影は、先徳たちが長谷寺の大恩人として代々報恩感謝の念を捧げてきた、まさにその伝統の結果に他ならなかったのです。