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後一条院(ごいちじょういん)の御代(一〇一六〜一〇三六)に、奈良の春日社の社司に正預中臣信清(しょうのあずかりなかとみののぶきよ)という者がいた。その最愛の嫡男で信近(さねちか)という者の足に、蛇目丁(じゃがんちょう)という、できれば七日で死んでしまう瘡(かさ)ができてしまった。日はすでに四日に及んだけれども、いよいよ医術も叶わず、仏神も助けてくださらなかった。
父の信清は思いのあまり春日の社に重ねて参って「どうして氏子を一人死なせなさるのですか」と嘆き申し上げた。すると、そばに控えていた巫女(かんなぎ)に神霊が憑依して、
「私が氏子を思うことは、お前が父として子を思うことにも超えている。しかし、前世の善悪の報いである定業(じょうごう)は私の力の及ばないことである。ただ、お前はこれを持って長谷に参って嘆き申すが良い」
と言った。そして、長さが四寸(約十二センチ)ほどで葉が二つ付いた榊(さかき)の枝を巫女の口の中から取り出して信清に持たせた。
信清はおごそかなご霊験(れいげん)を不思議に、また頼もしく思って、長谷寺に参り、例の榊の葉を仏前に捧げて祈り申し上げた。参籠(さんろう)して三日目の長元(ちょうげん)二年(一〇二九)九月五日、観音堂の東の大戸から烏(からす)が一羽飛んで入って来て、例の榊の葉を取り、西の大戸から行方もわからず飛び去って行った。
その日は病者も六日目にあたっていて、今は医者も匙(さじ)を投げていた。父は長谷詣(はせもうで)でに行っており、ただ母と妻など七、八人が信近の死を待って見守っていた。病者が家の内で亡くなっては具合が悪いと言われているので、家中の者は信近を母屋の外側の部屋に、ものを掻き出すように移して、足を簾(すだれ)から外に出しておいた。すると、南の方から烏が一羽、縁の上に飛んで来て、病者をつついて五寸(約十五センチ)ほどの小蛇一すじ、腫物(はれもの)の中から引き出した。そして、ばたばた動いている蛇を口にくわえ、南に向かって翔び去った。
病者は半時(一時間)ほど寝入ってから目が覚め、ついに別事なく平癒(へいゆ)した。その後、信近は出世を思いのごとく遂げ、正預(しょうのあずかり)や権預(ごんのあずかり)の位を極めた。
父の信清は喜んで、長暦(ちょうりゃく)三年(一〇三九)四月十二日から二十二日に至るまでの十日間のうちに、長谷寺にはじめて九十九間の登廊を建てた。また同年五月八日、百僧を請(しょう)じて供養の儀式を行った。
神でさえも自分の力が及びなさらないほどの前世から定まっている報いを長谷寺に嘆き申し上げなさったのであった。まことに尊いことである。
参考文献
「長谷寺験記」
上巻 第十五話
後一条院(ごいちじょういん)の御代(一〇一六〜一〇三六)に、奈良の春日社の社司に正預中臣信清(しょうのあずかりなかとみののぶきよ)という者がいた。その最愛の嫡男で信近(さねちか)という者の足に、蛇目丁(じゃがんちょう)という、できれば七日で死んでしまう瘡(かさ)ができてしまった。日はすでに四日に及んだけれども、いよいよ医術も叶わず、仏神も助けてくださらなかった。
父の信清は思いのあまり春日の社に重ねて参って「どうして氏子を一人死なせなさるのですか」と嘆き申し上げた。すると、そばに控えていた巫女(かんなぎ)に神霊が憑依して、
「私が氏子を思うことは、お前が父として子を思うことにも超えている。しかし、前世の善悪の報いである定業(じょうごう)は私の力の及ばないことである。ただ、お前はこれを持って長谷に参って嘆き申すが良い」
と言った。そして、長さが四寸(約十二センチ)ほどで葉が二つ付いた榊(さかき)の枝を巫女の口の中から取り出して信清に持たせた。
信清はおごそかなご霊験(れいげん)を不思議に、また頼もしく思って、長谷寺に参り、例の榊の葉を仏前に捧げて祈り申し上げた。参籠(さんろう)して三日目の長元(ちょうげん)二年(一〇二九)九月五日、観音堂の東の大戸から烏(からす)が一羽飛んで入って来て、例の榊の葉を取り、西の大戸から行方もわからず飛び去って行った。
その日は病者も六日目にあたっていて、今は医者も匙(さじ)を投げていた。父は長谷詣(はせもうで)でに行っており、ただ母と妻など七、八人が信近の死を待って見守っていた。病者が家の内で亡くなっては具合が悪いと言われているので、家中の者は信近を母屋の外側の部屋に、ものを掻き出すように移して、足を簾(すだれ)から外に出しておいた。すると、南の方から烏が一羽、縁の上に飛んで来て、病者をつついて五寸(約十五センチ)ほどの小蛇一すじ、腫物(はれもの)の中から引き出した。そして、ばたばた動いている蛇を口にくわえ、南に向かって翔び去った。
病者は半時(一時間)ほど寝入ってから目が覚め、ついに別事なく平癒(へいゆ)した。その後、信近は出世を思いのごとく遂げ、正預(しょうのあずかり)や権預(ごんのあずかり)の位を極めた。
父の信清は喜んで、長暦(ちょうりゃく)三年(一〇三九)四月十二日から二十二日に至るまでの十日間のうちに、長谷寺にはじめて九十九間の登廊を建てた。また同年五月八日、百僧を請(しょう)じて供養の儀式を行った。
神でさえも自分の力が及びなさらないほどの前世から定まっている報いを長谷寺に嘆き申し上げなさったのであった。まことに尊いことである。
参考文献
「長谷寺験記」
上巻 第十五話
後一条院(ごいちじょういん)の御代(一〇一六〜一〇三六)に、奈良の春日社の社司に正預中臣信清(しょうのあずかりなかとみののぶきよ)という者がいた。その最愛の嫡男で信近(さねちか)という者の足に、蛇目丁(じゃがんちょう)という、できれば七日で死んでしまう瘡(かさ)ができてしまった。日はすでに四日に及んだけれども、いよいよ医術も叶わず、仏神も助けてくださらなかった。
父の信清は思いのあまり春日の社に重ねて参って「どうして氏子を一人死なせなさるのですか」と嘆き申し上げた。すると、そばに控えていた巫女(かんなぎ)に神霊が憑依して、
「私が氏子を思うことは、お前が父として子を思うことにも超えている。しかし、前世の善悪の報いである定業(じょうごう)は私の力の及ばないことである。ただ、お前はこれを持って長谷に参って嘆き申すが良い」
と言った。そして、長さが四寸(約十二センチ)ほどで葉が二つ付いた榊(さかき)の枝を巫女の口の中から取り出して信清に持たせた。
信清はおごそかなご霊験(れいげん)を不思議に、また頼もしく思って、長谷寺に参り、例の榊の葉を仏前に捧げて祈り申し上げた。参籠(さんろう)して三日目の長元(ちょうげん)二年(一〇二九)九月五日、観音堂の東の大戸から烏(からす)が一羽飛んで入って来て、例の榊の葉を取り、西の大戸から行方もわからず飛び去って行った。
その日は病者も六日目にあたっていて、今は医者も匙(さじ)を投げていた。父は長谷詣(はせもうで)でに行っており、ただ母と妻など七、八人が信近の死を待って見守っていた。病者が家の内で亡くなっては具合が悪いと言われているので、家中の者は信近を母屋の外側の部屋に、ものを掻き出すように移して、足を簾(すだれ)から外に出しておいた。すると、南の方から烏が一羽、縁の上に飛んで来て、病者をつついて五寸(約十五センチ)ほどの小蛇一すじ、腫物(はれもの)の中から引き出した。そして、ばたばた動いている蛇を口にくわえ、南に向かって翔び去った。
病者は半時(一時間)ほど寝入ってから目が覚め、ついに別事なく平癒(へいゆ)した。その後、信近は出世を思いのごとく遂げ、正預(しょうのあずかり)や権預(ごんのあずかり)の位を極めた。
父の信清は喜んで、長暦(ちょうりゃく)三年(一〇三九)四月十二日から二十二日に至るまでの十日間のうちに、長谷寺にはじめて九十九間の登廊を建てた。また同年五月八日、百僧を請(しょう)じて供養の儀式を行った。
神でさえも自分の力が及びなさらないほどの前世から定まっている報いを長谷寺に嘆き申し上げなさったのであった。まことに尊いことである。
参考文献
「長谷寺験記」
上巻 第十五話
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