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三条の御世(一〇一一〜一〇一六)、山城国泉の木津①に一人の貧しい男がいた。名を野慈(のじ)といった。身分が低く貧しいものではあったが、
前世の善因のお陰であろうか、容貌は悪くなかった。信心もまことに深かった。野慈はひとえに長谷寺に帰依して、月詣でをはじめ、貧しさを嘆き申しあげた。
ただ歳を重ねたけれども、何の御霊験もなかった。野慈は宿坊の師である小坂の慈願(じがん)上人という人に向かって、その折、鐘の音が悪く勢いも小さいかったので
「私の宿願がもし成就したらならば、必ず長谷寺に大きく、音の良い鐘を鋳て差しあげましょう」と言った。そばで聞いていた人は、野慈の貧そうな様子を見て絵空事のように思い
「未来の世(来世)で鋳るのですか」などと聞こえよがしに言って笑った。その後、長谷寺で野慈は「未来男」と呼ばれた。野慈はますます心憂く悲しく思い、毎月参詣して観音様に訴え申し上げた。
三年が満ちる長和三年(一〇一四)〈甲寅〉の春ごろ、野慈は頼もしい夢を持て喜び、物も食わずに急いで帰途についた。だが、道の途中で腹がすいてしまった。 その時、近江守藤原惟憲②(おうみのかみふじわらのこれのり)が長谷寺へ参詣するために、在原寺③という五郎中将業平④(ごろうちゅうじょうなりひら)の堂に幕などを引きめぐらして、昼御飯を食べていた。 野慈は恥ずかしくは思ったが、今は歩く力もなかったので、立ち寄ってこっそり物を乞うた。惟憲は呼び入れて物を食わせ、野慈をもてなしてあれこれ話をした。
観音様の御方便であろうか、容貌や外見に親しみが持てたので、惟憲は野慈を近江国(現在の滋賀県)の国司代に引き立てた。それ以降は裕福に栄え、相応に立派な者となり、後には正六位の位に昇進して、栗太の助貞(くりたのすけさだ)と名を改めた。地方官の中でもすばらしく繁栄した者になったのである。そこで自ら立願したことだったで、助貞は鐘を鋳ることにした。その時、助貞は、
「私はすでに観音様の御加護により身にあまる御霊験を蒙りました。願わくは、音も形も念願のごとく鐘を鋳ることができますように。音を鳴らせばますます観音様の威光を人に気づかせ、音を聞くものはことごとく観音様の御霊験にあずかりますように。そうやって現世と来世の願いを満たせてください」
と誓願した。鐘は念願どおりに鋳て、寛仁三年(一〇一九)三月十八日に百人の僧をまねき供養した。風誦文⑤(ふじゅもん)には、吉事だからということで、自分の名の助貞をさしおき「正六位下木津の未来」と書いた。その後、俗にこの鐘は「未来が鐘」と呼ばれるようになった。
まことに深い願いに答えてくださったであろうか、供養の夜、助貞は、長谷寺の山内の異類異形の畜類やあらゆる人々が蓮華に乗り、虚空に満ち満ちて、西方極楽浄土に向かって飛んでいく夢を見た。その中には自分の祈りの師である慈願上人もいて、西方に飛んで行くところであった。慈願上人が下りてきたので、助貞が「どういうわけで」と問うと「お前の深重の願いに答えて、この鐘の声を聞く者はみなこのように西方に行くのです」と言った。助貞は歓喜して夢から覚めた。長谷寺の観音様の御恵みは、まことにあわれみ深いことである。
補註
①京都府木津川市に所在
②九六三〜一〇三三。平安中期の貴族
③奈良県天理市に所在した寺
④在原業平(ありわらのなりひら)八二五〜八八〇。平安初期の貴族、歌人
⑤法要に際し読み上げられる文章